沖縄テレビ開発常務

※役職等は収録当時のものです

山里孫存さん

G プレス | 2016年5月16日
GPRESS vol.139 テレビを通じて沖縄を伝えたい

テレビを通じて沖縄を伝えたい

沖縄の笑いのニューウエーブを作った「じゃかALIVE」、デビュー前の「SPEED」らが出演した伝説の音楽番組「BOOM BOOM」を生み、報道では沖縄戦と向き合い、映画製作に挑む沖縄の少年を追ったドキュメンタリー「カントクは中学生」でギャラクシー賞を受賞するなど、沖縄を代表するテレビ人、沖縄テレビの山里孫存(まごあり)さん。今年から沖縄テレビ開発常務として、沖縄の流行の最先端を発信する新番組の制作に取り組んでいる。テレビ人として進化を続けながら、さまざまな「沖縄」を発信し続ける山里さんに聞きました。

GPRESS vol.139 / 2015. November より
山里孫存さん

沖縄テレビ開発常務

平成元年OTV入社。バラエティーや音楽番組等の企画・演出を手がける。平成14年、報道部異動を機に沖縄戦に関する取材を始める。戦後60年特番「むかし むかし この島で」が多くの賞を受賞した。その後制作部へと再び異動。史上最年少の映画監督に密着した「カントクは中学生」が「ギャラクシー賞」を受賞。

なぜテレビ局に入られたのですか。

 本当に子供のころからテレビが大好きで、朝に新聞のテレビ欄に丸を付けて、「母さん、ぼく7時から8時までしか時間がないからそこでご飯食べないと食べれないよ」なんて言ってました(笑い)。それがベースにあって、琉球大学に進学した後、映像制作がしたくて、映画研究会に入り、そのままの流れでテレビ局に入りました。

制作にかかわるようになったのは。

 ディレクターってかっこいい、と思っていたんで、最初の1、2年は目の前にある仕事をやっている感じでした。3年目から自分で作りたくなりました。そこで、後に人力舎さんにスカウトされて東京進出することになる沖縄の人気お笑いコンビの「ニーニーズ」と沖縄のバラエティーをやろうと「じゃかALIVE」という番組を作りました。

バラエティーだったんですね。

 ちょうど沖縄のお笑いのニューウエーブが来ていた。それ以前は、テルリンこと照屋林助さんが沖縄のお笑い界のレジェンドで、音楽漫談がベースだった。その次世代として「笑築過激団」というのが沖縄の言葉を駆使したコントや喜劇を始めていて、さらに沖縄のとんねるずと言われていた「ニーニーズ」が出てきたので、そいつらと「一緒にやろうぜ」という感じでした。その番組で沖縄の高校を回って、「面白いやつ出てこい」ってやっていたときに、いまよしもとで沖縄の住みます芸人をやっている空馬良樹というのが出ていたりしたんですよ。

沖縄のお笑いをリードした?

 最初は沖縄で番組を作るんだけど、あまり沖縄らしくない、全国ネットと比べられても遜色のないおしゃれな番組を作ろうとしたんですが、やっているうちに沖縄らしい番組を志向するようになってきて、今では沖縄全体もそうなんですが、逆に沖縄再発見というか、沖縄の言葉を守れとか、沖縄以外の人が見ても分かりにくいようなディープな沖縄の番組になっていますね。

変わっていくきっかけは?

 きっかけはいくつかあって、「THE BOOM」の宮沢和史さんが「島唄」を歌ったとき、内地(日本本土)の人が受けるよりも、沖縄の若者に大きな衝撃が走った。(沖縄の民族楽器の)三線(さんしん)にストラップを付けて弾くというのは喜納昌吉さんぐらいでしたけど、もちろん喜納さんもすごいミュージシャンだったんですが、三線を弾いて歌う宮沢さんの姿が、沖縄の若者たちの目に凄く「かっこいい」と映ったんです。ほぼ時を同じくして安室奈美恵ちゃんが出て来て、沖縄の女の子が好きなものを着て、歌って、踊って、それを「アムラー」とか言って、「渋谷の女の子がまねしているよ」って。沖縄の若者にとって、「沖縄は沖縄のままで全然オーケーなんだ」って胸を張って思えるようになったんです。

ちょうどそのころに「BOOM BOOM」を作ったんですね。

 安室奈美恵ちゃんが出て、アクターズスクールのオーディションとかあると3000人とか集まったんです。番組の立ち上がりでは、「SPEED」がいて「DA PUMP」も知念里奈も山田優もみんないたんです。そのときのパッションとしては「東京を田舎にしてやろう」と思っていた。東京の人はまだ知らないのに、ダンスとか歌とか練習して、この番組からデビューが決まると初めて東京で見られる。当時は画期的だったんですが、関東や関西の独立UHF局が番組販売で買ってくれて、最大14局で放送。結構派手にやってました。

そして報道も担当した。

 その後、報道に行ったんですが、制作とは全く真逆に感じて、感覚としては「待ち」の仕事に思えたんです。ノープランで出社しても、指示をもらって現場行って仕事できちゃうような。。。3カ月ぐらいやってやばいなあと思って、ネタを探すようになり、テレビ人として沖縄戦と向き合ってこなかったな…って思って取材を始めたんです。

そうして沖縄戦当時、県民の保護に力を尽くした島田叡(しまだ・あきら)沖縄県知事の生涯を追った「悲しいほど海は青く」の制作に至った。

 島田知事という人は、前任者の泉守紀知事が出張に行ったまんま逃げちゃったんで、たらい回しのあげく、島田さんは大阪にいたんですが、誰か行かなきゃ行けないということで1945年1月に赴任したんです。6カ月ぐらいしかいなかったんですが、肝の据わった人ですごく人気があったんですね。おびただしい慰霊碑がある摩文仁の丘の見学コースの一番のところに島田知事をまつった「島守の塔」があるんです。子供のころからその慰霊碑に何か分からずに手を合わせていたんですが、ある日バスガイドさんが高校生に向かって「沖縄県民は島田知事のことを今も忘れていません」と説明しているのを見て、「俺知らねえし」と思って、これは知らせないといけないと思うようになったんです。

沖縄と戦争にも目を向けてほしいと。

 大事なことは知っているし、子供のころに家族から話を聞いたりしていたので、知ってはいたんですが、「楽しいことをやりたい」というのが強かった。2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落事故が発生して、そのとき現場に行ったら、まさに戦場で、米軍と押し合いへし合いしたりしていたのに、急に「撤収!」って言われて、全国中継は無しに。「何でですか」って言っていたら、その日の全国トップニュースが「ナベツネ辞任(プロ野球巨人のオーナー、渡辺恒雄氏がドラフト違反で辞任したニュース)」ですよ。僕らの取材したものは40秒ぐらいのフラッシュでした。現場から中継したのはNHKだけ。「なめんな」って感じがすごくあって、沖縄のことって全く伝わっていないんだなあと実感した。アクターズスクールとかでギャップを楽しんでいたんですけど、沖縄のことを伝える立場なのに「全然届いてないんだ」と思いました。

なかなか伝わらないもどかしさがあった。

 ドキュメンタリーで賞をいただいたり、手応えはあったんですが、沖縄戦の話は大事なんだと思うけど、内地の人たちは罪悪感もあるんでしょうけど、チャンネルを回されてしまうよって聞いたので、照屋林助さんの師匠で沖縄で初めての漫談芸人と言われているブーテンを主人公にした「戦争を笑え 命ぬ御祝事さびら! 沖縄・伝説の芸人ブーテン」を作ったんです。ブーテンは、終戦直後の収容所でみんなが泣いているところに「助かった命を祝おうじゃないか」とみんなを笑わそうとして、歌ったり、踊ったりしていた。お笑い芸人を入り口に沖縄戦を語れば少しは届くのかなと思って。それまでのバラエティーと報道の経験が融合して、全国放送もされました。

そこから再びバラエティーの制作に戻った。

 ブーテンって沖縄のコマーシャルを沖縄の言葉「ウチナーグチ」で作った元祖とも言われているんです。でも残念なことに、当時のブーテンのネタを今聞いても、僕らの世代には全く理解できないんです。当時の人は咳き込むぐらい笑っていたのにですよ。解説をみてみると、例えば貫一お宮のパロディーなんですが、貫一は(那覇市)小禄出身の男で、お宮は糸満の女なんです。当時糸満は金にがめつくて、小禄は後から那覇に合併されたのでひがみっぽいというイメージがあって、ブーテンが糸満と小禄のなまりを駆使して話すだけでビンビン伝わってすごい受けているんです。でも僕には面白さ分からない。沖縄の人間として、こんなにも豊かな沖縄の笑いが生きていた世界が失われていることに愕然として、沖縄の言葉に向き合う番組を作りたいと思ったんです。それで「ウチナーグチ」を未来に継承しようというコンセプトで、沖縄の言葉でコントやトークをするバラエティー「ゆがふぅふぅ」を作ったんです。

沖縄に回帰して、次は「カントクは中学生」でギャラクシー賞を受賞しましたね。

 仲村颯悟(りゅうご)君っていう、たぶん日本映画史上、最年少の監督だと思うんですが、彼は小学校低学年からカメラを回して、なんと小学5年生のときに沖縄コンベンションビューローに「ロケ地を紹介してください」と行ったらしいんです。彼が中学生になって、コンベンションビューローの予算で、映像コンテンツを通して沖縄を発信するコンペティションが開かれて、仲村君の企画が見事採用され、15分の短編をプロのスタッフと作ったんです。それが評価されて「劇場用作ろうか」となって、プロスタッフを使って、中学生が「はい、カット!」とかいいながら1時間半の劇場用映画を作ったんですよ。沖縄で7万人も動員したんです。それをずっと追っかけたのが、「カントクは中学生」です。僕が大学生の時に一緒に映画作っていた連中が周りでサポートしていたんで、「俺が追っかける!」っていってずっと密着して、メイキングドキュメンタリーなんですが、颯悟君のキャラクターもよくて、周りの大人たちのかかわり方もよくて、ギャラクシー賞をいただきました。

そして新しい仕事に挑戦するんですね。

 国際通りに複合型観光商業施設「HAPINAHA(ハピナハ)」が新しくできたのをきっかけに、おしゃれだったり、おいしいものだったり、沖縄の楽しい情報発信する「ミミアリメアリー」の制作をすることになりました。カフェを舞台に、東京で活躍するモデルの安座間美優ちゃんに真ん中に座ってもらって、おしゃべりを展開してもらってます。今回制作現場として目指しているのは、ハピナハって、元々沖縄三越で、その前は大越百貨店だったんです。沖縄で最初のデパートで映画館も周りにあって、その後も地元の人が集う場所だった。三越の横は「ミツヨコ」っていって、「DA PUMP」とかストリートダンサーたちが踊っていたりしたんです。沖縄の流行の中心だったんです。それが今や観光客しかいかない場所になってしまった。さびしいなあと思っていたら、ハピナハという新しい求心力のある建物がスタートしたので、そこからテレビを使って、沖縄の人たちにもう一度、「那覇に遊びに行こうぜ」という感じに視線を集めたいなあと思っています。